虎姫(1564〜1610)像(中川秀成正室) 慶長期 大善寺所蔵
父は、佐久間盛政 大伯父 柴田勝家

戦国の姫は、その生死を含めて時代に翻弄されて送らねばなりませんでした。
その中でも格別、数奇な人生を送ったのがこの虎姫です。


信長亡き後の織田家当主を選ぶ いわゆる清州会議で織田家筆頭家老であった柴田勝家は
秀吉に主導権を握られ、ついに 翌年 賤ヶ岳の戦いが起こります。
彼女の父 佐久間盛政は、柴田勝家配下の闘将として
敵の前線の砦を壊滅するなど奮戦しますが、結果的にそれが仇となり、
勝家は戦いに敗れ、北ノ庄の居城で 
お市の方と共に自刃。
盛政は捕えられて、処刑されます。
この勝利により、秀吉は織田家中を完全に掌握し、天下取りの第一歩を踏み出しました。

詳しくはこれをご覧ください。
(長いですが、信長・お市の方・秀吉・勝家の関係がよくわかります。)


しかし、虎姫にとっての数奇な人生はここから始まります。
秀吉は、虎姫にかの賤ヶ岳の戦い
父・盛政が砦攻撃で討ち取った中川清秀の次男・秀成に嫁するよう命じたのである。
虎姫は、中川家にとっては父を殺された仇の娘。



賤ヶ岳の戦い合戦屏風(大阪城天守閣 蔵) 一部 佐久間勢が中川勢の守る砦を攻める

戦国の世では、敗れた姫は親の仇の側室になるのはよくある事。
でもその逆、それも正室になる事はないといってよい。
しかし、秀吉の命は絶対ともいえ、虎姫はもちろん中川家も逆らう事はできませんでした。

しかし、秀成は虎姫を恨む事はなく、仲は悪くなかったとみえて
虎姫はなんと秀成との間に四男三女を生みます。
そして、その子孫は、豊後・竹田の岡藩藩主として改易される事なく明治維新まで存続し
さらに実家の佐久間家もその子孫により再興されました。



不思議ですね。

秀吉の裁定の意図は定かではありませんが、
しかし何より
秀成の赦す心が家の繁栄にと繋がったのかもしれません。


さて、虎姫の像の彼女は、慶長小袖と言われる総柄の豪華な小袖を
実にゆっくりとまとっています。
帯は細く、そして緩やかに締めているのがよくわかります。
打掛は纏わず、足元に置き、やはり、彼女も正座はしていない。
しかし
当時の女性の肖像画では、
お犬の方などのように片膝立て座りが多いのに対し
彼女はどうも膝は立てていないようです。
打掛で右足の形状が見えないが、どうも胡坐(あぐら)座りかもしれません。

当時の小袖は相当広かったので、
片膝でも胡坐でも、
脚が露出する心配は一切ありませんでした。


戦国の世にまみれて激動の人生を強いられた彼女でしたが
晩年はこの像にあるように
和やかな生涯を終えたと思いたいです。



小袖絵巻