織田信長(1534〜1582)像 天正十一年(1583年)作 狩野元秀画 長興寺収蔵

お犬の方 お市の方 は妹。
日本史上で 人気・知名度共 TOP5にはかならず入る超有名人。

「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」のたとえのように
気性が激しく、瞬間湯沸かし器の如く短気のイメージがありますが、
因習にとらわれない極めて合理的な性格であったのではないかと思われます。


この肖像は信長没後まもない1周忌に際して描かれました。
派手好み南蛮好みの信長に、白の小袖を着せて描いているのはそれと関連していると思われます。
(明治以前は、白がハレを表し、喪服も白であった)




信長所用 袖なし陣羽織(羅紗製)

カルサン袴

織田家は「木瓜紋(織田木瓜)」であるが、この肩衣には、「五七桐」紋が配されている。
これは足利将軍家が天皇家から下賜された紋であり、さらに袴の「二引き両」も足利家の紋であるので
将軍家から拝領された裃であるのを示していると思われる。


しかし、最後の室町将軍・足利義昭を追放した彼でもあるので
たとえ拝領していても、生前ならおそらく肖像画には描かせなかったと思います。

彼は、既存の権威には背を向けてました。

この肖像画の他にも 没年前後に描かれたものとして、
安土城下のハ見寺由来の像があります。



天正十一年(1583年) 古溪宗陳 賛 神戸市立博物館所蔵

これも信長一周忌に際して描かれました。
当時の最正装の束帯姿
上記肖像と衣は違いますが、顔はそっくりです。

また、三回忌法要の際、秀吉が発注し、
元秀の兄で狩野派の頭領 狩野永徳が描いたという 大徳寺所蔵のものもあります。



天正十二年(1584年)作 狩野永徳画 大徳寺収蔵

こっちの信長の顔立ちはやや長いが、雰囲気は似ていますね。

さて、この3つの肖像  どれも、制作年は極めて近いですが、
実際の信長にどれが近いのでしょう?




この永徳画の像の紋は「五七桐紋」に加え、織田家の「木瓜紋」二つの三つ盛になっています。
元就も三つ盛で、これは他にも例はありますが、複合系は、あまり見ません。
没後描かれた肖像画ですので信長が指示したわけではありませんが
日頃から、この紋配置のモノを纏っていたと思います。




この像の肩衣の下の小袖は、白ではなく、かなり渋い柄物です。
しかし、京都国立博物館の研究では、これも元は派手な配色の片身替わりであったのを
地味な色に描き換えた事が最近わかりました。
科学の進歩ですね。




こうでなくては、信長らしくない。

しかし、一度描いたものを わざわざ手間をかけて地味にしたのは
そこに強い思惑があった事は間違いありません。
永徳は、ナマ・信長をよく知っているはずです。
最初に描いた方が真実の信長像であったと言えるでしょう。

とはいえ、ハデ好みは信長だけではな、戦国武将全般に言える事でした。



上杉謙信所用 胴服

日々、命のやり取りを続けていた彼らにとって
身にまとう 小袖などの衣は、
災難・ケガレを払う力を持つハフリ・ハレの意味合いもあったように思います。
決して、ハデ=ハレではないのですが
戦乱の世に生きる当時の武将には多分にあったかもしれません。


なお、当時の肩衣は、江戸期からのと違い、襞をつけて肩を張ってはいません。
また、巾も江戸期のように狭くはなく、打ち合わせをしています。
信長の時は、直垂・素襖系から袖を取っただけで、
その後、形式化した肩衣(裃)の移行形態だろうと思われます。




現代に伝わる肩衣(能楽用)
肩衣の裾は狭く、帯に差し込むだけ


遠山の金さんが、さっと片肌脱いで、桜吹雪を見せることができたのも
このボーダーの肩衣だったからと言えるでしょう。

(苦笑)


小袖絵巻