原爆と戦争

序章
海上挺進戦隊について

昭和20年(1945年)8月6日。
すべて色を奪った原子爆弾が、世界で始めてヒロシマで実戦に使われた日。

私の父は、
戦争中 陸軍海上挺進戦隊(秘密部隊 マルレ)として
広島沖の江田島に駐屯していました。

その父から聞いた その日のことを ここに残しておきます。


敗色濃厚の日本は、本土決戦にむけて
 軍備の劣勢を補うために人間爆弾の養成をしていました。
父が志願した陸軍船舶特別幹部候補生も、まさしくその一つでした。

父は、志願当時は18歳。
他の志願兵たちも、すべてまだ未成年でした。
いわゆる 少年兵です。

当時の風潮だと、体が丈夫な者は、20歳になるまで志願するのは当たり前でした。
しかし、いったい何を目的とする部隊なのかは、
志願者には何ら知らせれていませんでした。

これは、軍の機密作戦だったのです。



父は、和歌山そして小豆島での予備訓練を経て、
昭和20年5月に広島市の沖合にある江田島に着任します。
そこで、始めてこの部隊の任務を父たちは、知ることになります。

父は二期生。
既に一期生は、レイテ・沖縄などの前線に出撃していて、
既に島にはいませんでした。

戦時下での、情報漏えいは厳しく罰せられましたので、
当然家族にも、配属名はもちろん、自分の居場所さえも伝えることはできません。
ましてや、海上挺進隊は、軍部の機密部隊です。
なんと父たち当人でさえ、
戦時中 自分たちが海上挺進戦隊という正式呼称でさえ知りませんでした。

すべては戦後聞いた話なのです。
当時、聞いていたのは、
船舶が「○レ」(マルレ)という名称と言うことだけでした。



復元されたマルレ艇


マルレ艇
ペラペラのベニア板でできた軽い船体に、
自動車用のエンジンを積み、
後部に爆弾を積んで 全速力で米艦に向けて突撃する。
それが海上挺進隊の任務でした。

ちなみに、父は訓練に使用したマルレ艇のエンジンは日産製で、
海上を飛ぶように、走ったと言います。




陸軍海上挺進部隊参照

目標までギリギリのところまで静かに接近、
そして 一気にエンジンを全開し 目標の数メートル前で爆弾を投下し
すぐさま方向転換するという肉薄攻撃でした。

しかし、実際は到底逃げ切れることなんてできません。
そもそも、ベニヤでできた船なので、
敵弾を少しでも受けたらひとたまりもなく、
目標の敵艦に到達する事さえも
至難の業といえるのです。

肉薄とは名ばかりの特攻部隊でした。

来る日も来る日もこの訓練。
それは、彼らにとって、最初で最後の一発勝負の実戦でもあります。
出撃すれば、皆誰も助からないと思っていました。

一期生は、自分の命を賭して、
敵艦数隻を撃沈するなどの大きな戦果をあげました。

しかし、それは最初のうちだけでした。
米軍もバカではありません。
日本軍の捨て身の作戦も、すぐさま対策をたてられたのです。
甲板にたくさんのドラムカンを並べておいて
特攻隊の襲撃と知るや 一斉にそれを海に投棄したのです。

あわれ特攻隊は、目的を達するまえに、
海に浮かんだ無数のドラムカンに衝突し自尽するころになったと聞いています。
全速力だから避けようがありません。

また、その後の沖縄戦では輸送中に艇と共に海のもくずとなった戦隊。
また沖縄に到着した戦隊も、米軍の雨あられの艦砲射撃などにより、
秘匿していた艇はほとんど破壊され、出撃さえもできなかったようです。



沖縄戦で米軍に接収された一期生のマルレ艇

命があまりにも軽い時代でした。
もちろん そういう話は父たちも、すべて戦後聞いた話です。
一期生の状況は、戦時中には、一切なにも聞かされず、
父たちは、江田島でひたすら敵艦に肉薄するべく突撃訓練を日々続けていました。

しかし、8月に入り、米軍の本土上陸近しの戦況下で、
二期生は、江田島での訓練を順次終了させ、
各戦隊ごとに実践配備してゆきます。
父の戦隊も8月下旬に出撃命令が出ていました。

父は、7月下旬にはすでに遺書を書かされています。

この遺書は、出身地の役場に保管され、戦死が確認されてから、
遺族に渡されるものだと聞かされたようです。
遺書には、爪と髪が添付されました。
確かに海上で爆死したら、遺骨も何も残りようもありません。

戦後、随分たっても
父は、「わしが死んだら、西宮の役所から遺書が返ってくる。」
と真顔で言ってました

「まさか・・」
私は思わず笑いましたが、
父の脳裏には、
今でもトラウマのようにその遺書が残っているのいたのだろうと思います。


しかし、8月15日の天皇陛下の聖断
いわゆるポツダム宣言受諾の玉音放送により
父の出撃はなくなりました。

これが、もしもう少し遅ければ、父の命はなく
当然、私もこの世に存在しませんでした。


しかし、これはその代償と言うべきか・・
父は、この世の地獄を見ることになるのです。


その日の事を、私たち家族にもあまり多くを語りませんでした。

しかし、70を過ぎて、悪性リンパ腫にかかり
死期をさとったのか
少しづつその重い口を開くようになりました。

おそらく、言い伝えなければならないと 思ったのかもしれません。

これは、その父が私に語った記憶をまとめたものです。

ヒロシマの色を奪ったヒカリ


被ばく2世について
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