地獄絵図
注意・このページには、悲惨な写真があります。


そこは、まさしく 地獄絵図だと思った。
宇品についた部隊は、想像を絶する光景に息をのむ。
港のあたりは、まだ原形を留めた建物があったが、
市内の方を見ると 建物で見えるはずもない山が見える。



点在するビルあとのほかは、何もない。
まさしく灰燼に帰したというのが、このことだろう。




歩く人 座る人 そして 横たわる人も服は焦げてボロボロ
 見えてるところは、すべて火傷を負っている。
馬も横死していた。
部隊は、上官から指示を受けた後 被害の大きい市内のほうに移動を始める。
けが人の搬送と 道の確保がおもな任務だった。
北に向かう兵士と逆に被災した人は、南の港の方にゾロゾロと向かってきて 道で交差した。
皮膚は、赤くそして黒くはれ上がり とても正視できなない。 



その数があまりにも多かった。
歩いてゆくにつれ、死体の数が目に付く。
少年兵たちにとって、実戦経験はない。
これだけ多くの死というものに直面するのは、初めてのことだった。

当時はわからなかったが、救援本部は御幸橋付近におかれた。




8月6日 午前11時ごろ 御幸橋付近 松重美人氏撮影

どれだけ歩いだろう。
30分・・1時間 地図も磁石もない状態だったが、
部隊はさらに6、7人の班に別れ、救援活動を開始する。
当時、二期生は未成年といえど、階級は伍長。
三期・四期生たちを率いる班長となる。

最初の任務は、負傷者を川の桟橋に停泊している輸送舟艇まで運ぶことである。
負傷者はさらに、臨時の野戦病院となった似島の陸軍検疫所まで輸送された。
灰燼と化した町だから、船がどこに停泊しているかは、遠めでも見えた。

まず焼け残った家屋の中からまず 戸板を取り出し、生存者を探した。
川や池には、水を求めた多くの人が折り重なって倒れており、
そのほとんどの人は絶命していた。
死後硬直が、すでに始まっていた。




「兵隊さん 水をくれ」

道端に息も絶え絶えに、ひどい火傷を負った男性に足をつかんで訴えられた。
全身に火傷を負っているから のどがかわくのだろう・・・
しかし、
「水をやるな。それが末期の水になってしまう。やるとそのまま絶命する」
と上官から命令を受けていた。
水をやりたいが、やれないという葛藤にさいなまれながら兵士たちは、
ヒロシマという砂漠の中で黙々と搬送する。

上官からは、瀕死の負傷者は搬送するなとも命令されていた。
病院のキャパシティに限界があるので、少しでも生きる可能性のある人を
優先させるきわめて合理的な指示だ。
ただ、現場の兵士は、冷徹にその命令を実行できない。

もうだめだとわかっていても、一分の望みを託して、
取り出した戸板にのせて搬送した。



はじめのうちは、あまりの悲惨さに被爆者を見るのが怖かったが、
慣れというのは怖ろしいものだ。
食事がのどを通らなかった者も平気になってきた。

おかずに、今まで食べたことのない程のたくさんの量の肉がはいっていた。
どうも これは、馬肉だ。
これは、もしや・・・宇品で横死していた馬・・

う・・

しかし、そんなこといってられない。
疑念に思いながらも、それを胃袋に納めた。

もちろん、これは危険な内部ひばくに繋がる。
でも、少年兵たちにそんな知識はない。


兵士たちは、何回も何回も ただ黙々と暗くなるまで運んだ。

戦後、似島に運ばれた負傷者の大半は、やはりダメだったと聞く。
だが、それしか救助する術はなかったのである。

どれだけたったろう・・色のない町は暗くなり、さらに色がなくなる。
電燈がない中での行動は難しく、その日の救助活動を終えざるおえなかった。
残骸と瓦礫の中での就寝になった。

寝場所を決めて 横になろうとしたら、
そこに、一人の被爆した子どもが、座っていた。
年のころは、6歳ぐらいだろうか・・やはり火傷を負っていたが
それほど重症ではない。




「おなかがすいているだろう。これを食え」
と、常備していた乾パンと水をやると よろこんで食べた。
昼間 多くの被爆者と接したが、話をすることはほとんどなかった。
というより、搬送する人そのものが、話ができる状態でなかったし、
またそういう時間もなかった。
少年兵にとって、広島に来て始めて一般市民とゆっくり話しをしたのが、
その子どもだった。

「いくつ?」とか
「爆弾が落ちたとき、何してた?」とか
家族のことを聞いたと思う。
ただ、その内容はどうしても思い出せない。

そして、夜も更け、もう寝ようということになり、
一緒に枕をならべて、横になった。
異常な状態の中でも、疲れていたんだろう・・・・
すぐに深い眠りの中についた。

火 葬

 



被ばく2世
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